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最高裁判所第一小法廷 平成9年(行ツ)2号 判決 1999年2月04日

三重県伊勢市二俣一丁目一七番一七号

上告人

山本成九

右訴訟代理人弁護士

竹下重人

三重県伊勢市岩渕一丁目二番二四号

被上告人

伊勢税務署長 稲垣信夫

右指定代理人

杉山典子

右当事者間の名古屋高等裁判所平成八年(行コ)第一二号所得税更正処分取消請求事件について、同裁判所が平成八年九月二五日に言い渡した判決に対し、上告人から上告があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人竹下重人の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。

よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 藤井正雄 裁判官 小野幹雄 裁判官 遠藤光男 裁判官 井嶋一友 裁判官 大出峻郎)

(平成九年(行ツ)第二号 上告人 山本成九)

上告代理人竹下重人の上告理由

第一 本件の争点

上告人は、昭和六三年一〇月末日現在において、訴外株式会社に対して金六五〇〇万円の貸付金債権を有していた。

被上告人は、平成元年七月六日付をもって、上告人が右貸付金の利息として昭和六三年中に収入すべき金額四三七一万四八一三円あったとし、これを雑所得に係る収入金額であるとして、原告の昭和六三年分の雑所得の金額の更正処人をした。

上告人は、昭和六三年一〇月三〇日か三一日に、上告人の自宅で、株式会社の専務取締役であった岡村信宏(以下、岡村という)に口頭で陶亜に対する債権の全部を放棄する旨を告げた。上告人のした債権放棄により前記雑所得の金額は零になったものとして、被上告人のした更正処分の取消を求めた。

しかるに原判決(原判決が引用する第一審判決を含む。以下同じ)は上告人の主張を認めなかった。

原判決は、上告人の法廷における詳細な供述を全く採用せず、対立する側の証人の供述だけを採用してこのような判断をしたが、これは証拠の取捨選択を誤って、経験則に反する判断をしたものである。

第二 原判決は、上告人が昭和六三年一〇月三一日ごろ訴外株式会社(以下陶亜という)に対する債権全部を放棄する旨を、陶亜の専務取締役であり、陶亜と上告人との間の金銭貸借について独占的に担当していた岡村信宏(以下岡村という)に告げた、という主張を岡村等の証言に依って排斥したが、明らかに事実を誤認したものである。

一 岡村の証言の信用性を吟味するためには、上告人と岡村との長期間に亘る交友関係、それが破綻した事情を念頭におかなければならない。次のような事情があったことは、上告人の供述によって明らかに認められる。

二 上告人と岡村は二〇年来、家族ぐるみの交際を続けており、岡村が経営した事業に対して上告人は種々の協力をしてきたし、陶亜の設立とその会社への岡村の就職についても相談にのっている。

三 上告人の陶亜に対する資金の融通も、上告人としては陶亜の社長田中場哉とは一面識もなかったので、岡村の説明だけを信用して、岡村の希望する条件・方法で融通を続けてきて、陶亜の倒産に遭った。

三 陶亜の倒産(自己破産の申立)についても、申立直後に、初めは岡村が上告人の自宅に来て、経過報告をしたのであるが、その時の説明では、田中の経営が放漫で、債権管理などが不十分であったため、主要取引先の倒産などに引きずられて倒産した、ということであった。

四 陶亜の倒産直後、昭和六三年一一月はじめごろから岡村その他の陶亜の関係者が、毎日のように上告人方に来訪し、後始末の協議をした。その頃上告人は岡村らに対して、大口債権者であった上告人に一言の相談もなしに自己破産の申立をしたのは納得できない、再建の方途があるかもしれないから田中を連れて来いと言ったが、岡村の説明では、社長は行方不明であるということであった。(後に上告人が田中本人から聞いたところでは、岡村が指示をして某ホテルに宿泊させ、岡村および破産申立代理人以外の者との連絡を禁じておきながら、暴力団と関係のある取引先には田中の所在を知らせて、自分に対する追及を避けていた、ということであった。)

五 事後処理についての協議によって、茶器類の販売という事業は利益が大きいし陶亜の取引先には有力な業者も多いから、これを引き継ぐつもりで別会社(岡村が既に昭和六三年一〇月に設立していた有限会社和運堂を株式会社三重和運堂に改組する)を設立してその種の営業を継続するという合意が設立した。岡村を中心とする陶亜の関係者に上告人が参加し、社長を勤め、設立準備のための資金も提供することになった。

六 株式会社が設立されるまでは、和運堂によって茶器等の販売を取り行うが、それは、株式会社三重和運堂の営業のつもりでやるから、その営業の状況、取引の結果はすべて社長である上告人に報告するという約束のもとに営業を開始した。

七 ところが、昭和六三年一二月二二日、旧陶亜に対する破産決定がされた直接の二五日に田中瑞哉が一人で上告人方に来訪し、破産申立に至るまでの経緯を説明した。それに、破産申立が、倒産の危険にかかわらず何とか切り抜けたいという田中の意向を無視した岡村の独断(とくに、大口債権者である上告人が陶亜の再建には協力しないと言っているという嘘を告げて、田中が上告人と相談すること止めた、という)によってなされたものであること知らされた。この時期には、上告人はまだ岡村の言うことの方を信用していた。

八 昭和六四年(以下平成という)に入ってから、田中も個人として茶器類の行商を始めたことから、和運堂と取引先が交差したりすることがあり、上告人がその調整を図ったりしているうちに上告人としても岡村のやり方に少しずつ不信感を抱くようになったが、株式会社三重和運堂の設立には上告人の子供にも参加してもらい、上告人を社長にするが、役員報酬は出さない、と岡村が言い出したので、上告人は会社設立の準備から手を引いたし、和運堂に対する経営協力も止めた。

九 平成元年七月に、陶亜の取引先であった宝山美術の束縛から脱出して上告人に救いを求めて来た田中瑞哉が陶亜の倒産時における岡村の不誠実な行動について詳細な報告書(それは後に破産管財人にも届けられた)を書いて上告人にも写を交付したときに、上告人は岡村の一連の行動が利己的であり、陶亜の経営を担当していた者として極めて不誠実なものであったことを知った。田中瑞哉は同年七月二五日死亡した。

一〇 上告人は、直ちに三重和運堂(有限会社和運堂が改称したもの)の事務所に行き、強い口調で岡村らのやり方を避難し、「お前達が田中を殺したようなものだ、人間のやることではない」などと大声を出したことがある。その場に、岡村の部下として働いている神保攝朗もいた。

一一 さらに、平成元年四月に控訴人の経営するホテルについて所轄税務署(被上告人)の板打調査が開始されたが、その調査の進行につれて、岡村の依頼によって表には出していなかった上告人と陶亜との金融取引による利息が問題になっていることを知った上告人は、本件貸付に関する資料は全部岡村が保管しており、岡村と上告人以外の者は詳細を知り得ないのであるから、同人が税務署に告知したものと思い、岡村を避難するとともに、関係資料あるいはそのコピーを提示するよう請求したが、岡村は言を左右にしてなかなか提出せず、税務調査に適切な対応をすることができず迷惑を被った上告人は、度々岡村に対して強い言葉を投げたことがある。

一二 このような経過で、証人として出廷した岡村は上告人とは敵対関係にあった。

第三 債権放棄の申出をした経緯は次のとおりである。

一 昭和六三年一〇月三一日ごろ、岡村、岡田、神保三名が上告人の、事務所に来訪し(その頃は殆ど毎日誰かが来て状況報告や協議をしていた)、陶亜、および岡村、田中の個人財産の状態を説明したので、上告人は岡村に対し「取れるものがなければ仕方がない、古い債権はもう要らない。破産手続に私の名前が出ていろいろ調査されたりするのは迷惑だから全部放棄する。」と明言した。岡村は陶亜と上告人との金融取引について全責任を負っていたのであるから、これは陶亜に対する債権放棄の意思表示である。

上告人のその発言を聞いて岡村はその場で電話器をとり、破産申立代理人(へと岡村は言った)に架電したが「弁護士は留守だ」と言った。その翌日に電話をして「山本さんは陶亜への債権を全部放棄すると言っています」と言い、代って電話口に出た上告人は「よろしくお願いします」と言い、相手方は「わかりました」と答えた、上告人は相手方の名前などは確認しなかった。

その時の状況については、上告人の供述と証人波多野、岡村らの供述が甚しく喰い違っているのであるが、上告人の陶亜との金融取引について税務署に告知をし、事情聴取をされた同証人らが、税務署側の意向に傾いた証言をしたと推測されないでもない。

証人神保は、昭和六三年一一月ごろの、新会社設立準備のための打合せの場所で、上告人が「古い債権はもういらない」と発言していた、と証言している。

第四 上告人と陶亜、および岡村、田中との関係を綜合してみれば、上告人が債権放棄の意思表示をしたものと認めるに足り状況があることを主張する。

一 破産申立書の債権者一覧表に上告人の氏名は記入されていない。

このことについて原判決は、岡村の証言によって、上告人からの借入金は田中個人が借り入れて、これを会社にまわしていたので、債権者一覧表では、田中個人の立替金として記載されているものと認定している。仮に右の事実があったとしても、田中個人からの破産債権の届出はされていない(岡村らの立替金債権は届けられている)。このことは、田中が上告人の債権放棄の意思表示を受領していることを示すといえる。

破産申立代理人である波多野証人は、債務者の氏名を陶亜とする公正証書による借用証書を現認しているのであるが「田中社長がのせてくれるなと言ったので記載しなかった」と証言している。

二 上告人は、陶亜の破産申立当時、陶亜に預けてある商品があったので、それを回収するため破産管財人事務所に出向いた折、破産事務担当の事務職員から「山本さんの債権があることはわかっているが、届出があっても、支払超過の理由で、否認します」と言われ、「既に放棄してあるから届出はしません」と答えている。

三 岡村は、陶亜の債務について公正証書を作成したときから、上告人と陶亜との金銭貸借の制限利率が年一五パーセントであり、現実に支払っている月三・六パーセントは支払超過になることを知っていて、自分の心覚えのため法定利率による計算をしていたと証言している。そして「公正証書による見解」という書面を作って、田中にも説明した、その計算書は波多野弁護士の助言を受けて、平成元年の一月か二月ごろ作ったと言うが、波多野弁護士は平成元年一月一〇日限りで破産申立代理人を辞任し、本件訴訟係属まで岡村と面接してはいないのであるから右「公正証書による見解」が作成されたのは昭和六三年中であったと見るべきである。

田中瑞哉も昭和六三年一二月二五日に上告人宅に来訪したとき、その書面のことは知っていた。上告人は、「そのような事情もあるので、債権放棄をした」という趣旨の話をした。

四 陶亜に対する破産宣告がされる前から、上告人は岡村、岡田らの財産の保全、事業の再建について、行動の上でも、資産の面でも積極的に協力・援助をしてきた。

第一審判決の理由「第三 争点に対する判断」の一一丁表記載の<1>の事実は、仮称株式会社三重和運堂(その会社は、結局、設立されなかったので、実質は、有限会社和運堂)の業務としてなされたものであり、小切手による支払を現実に受け取ったのは岡村である。

第一審判決の、同じく一一丁裏記載<2>の事実は、古谷香茗園の販売能力を保存し、三重和運堂のために活用する意図の下、岡村が陶亜の香茗園に対する債権を破産財団から除外する手段として、上告人への債権譲渡の方式をとっただけのことであって、上告人はその取立をしていない。また破産管財人からの通知によって右債権は破産管財人に戻す旨通知がしてある。

第一審判決一二丁表記載<3>の事実はない。平成元年一月の中旬ごろ和運堂の営業と田中個人の行商との交差によりトラブルが発生したので、上告人が商圏の範囲について両者の割合を調整しようとしたことがある。その事に関して岡村の記憶違いか、あるいは曲解がある。

五 第一審判決一三丁表記載の「これによって原告が実質的に昭和六三年一一月から平成元年にかけて陶亜に対する債権の一部の回収を図った」との認定は全く事実に反する。右の時期には、関係者間には協力的雰囲気があって、会社設立の準備が進められ、和運堂の運営資金の提供や、上告人による和運堂のための支払保証等もされていたのである。

上告人と岡村との関係が悪化した後、上告人が岡村に対して支払の催告をしたのは陶亜に対する債権あるいは岡村に対する保証債権ではなく、上告人が経営する三信興業から和運堂に対する貸金であったことは、上告人が第一審においてるる説明したとおりである。

もっとも、上告人は、本件課税処分の契機が岡村の所轄税務署への告知にあったと信じていたので、審査請求に対する裁決があって、昭和六三年分の課税についてだけは上告人の請求が認容されなかったとき、岡村に対して「この税金はお前のためにかけられたのだから、悪いと思ったらお前が払え」と言ったことがあった。

岡村は上告人のこの怒りの言葉を旧債務の請求と曲解したのかもしれない。

第五 第一審判決一三丁表記載(3)の事実は、そのとおりである。これは、上告人に対する五年分の課税処分について審査請求の代理人をした税理士が、当方の請求が容認されそうである(事実六二年以前の四年分はそのとおりになった)、昭和六三年分も同年中に破産宣告がされているから、審査請求の理由としてはそれで十分だ(実は不十分であったことが後にわかった)と説明していたので、その段階で債権放棄の主張をしなかっただけである。

第六 平成元年春ごろ田中瑞哉が「山本之は支払をしなければならない」と発言した事実があるとしても、それは倒産によって迷惑をかけたから何らかの償いをしなければならないという債務者の心情を述べたものにすぎず、上告人からの請求に応じるという趣旨ではない。

そのころ、上告人が固辞したにも拘らず、田中が自分の生命保険証書を上告人に預けておいたのも、その贖罪の意思の表われであったろう。

田中瑞哉の死亡直後、上告人は、田中瑞哉に対する保証債権も放棄してあることを説明して、右保険証券を田中瑞哉の相続人に返却した。

第七 結論

以上詳述したとおり、陶亜倒産後の上告人の田中、岡村に対する応接は、あくまで同人らの再起・更生への協力であって、回収困難となつ旧債権に拘泥した者の態度ではない。

証人岡村らの反抗的な証言にとらわれずに上告人の供述を仔細に検討すれば、上告人の真意が、回収不能と考えられる旧債権は潔よく放棄して、岡村や生き長られていれば田中瑞哉の立直りを援助することにあったことが十分に理解できるところである。

原判決は、旧債権の回収に拘泥している債権者が債務者に無担保で新規の融資をしたり、新会社の設立に積極的に協力することはない、という経験則に反する判断をしているので、重大な事業誤認というべきである。

以上

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